ぴーちかのブログ

モリタゼミ/3期生

暇と退屈

久しぶりにゼミの活動記録を書きます。今回のブログ書きにくくてお風呂に入りながら考えていたら夜の2時を過ぎていて母親に怒られたのは私です。

 

そういえば、私事ですがやっと課題が片付きました。開放感…!まぁ、でもまた明日にはすぐ課題が出るんでしょうが(´・ ・`)

してもしてもまた出てくる課題や情報処理をしていると賽の河原を思い出してブルーになってしまいます。五月病ですね!イライラしてきました!このパワーで吹っ切ろうと思います!

 

今回のゼミのテーマは退屈とは何かでした。

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私は4番を選びました。

その理由はまず外的要因と心理的要因に分けられます。

 

暇ではないと考えた外的要因はオンライン講義の移行と共に課題が増えたこと、小テスト対策、オンライン説明会などに参加するための下調べなどしなければならないことがあったため。それによる心理的要因としてはしたいことが出来ない、課題が終わってないという焦りがありました。

 

退屈だと考えたことの外的要因はコロナの影響で外出自粛を行うことにより、外に出て、カフェやテーマパーク、岩盤浴(シンプルに好きなだけ)などに足を運べなくなったこと、また実家にいる為、大学の友人にはオンライン上でしか会えなくなったことがあります。さらに課題があるためそれによって自由時間が制限されてしまいます。それによる心理的要因として、今の生活は退屈でつまらないとおもっていました。

 

まず、定義については

退屈とは何もやることがないか、あってもつまらないと感じる、今の状況に嫌気がさしているということ。

暇とは時間が空いてて何もすることがない状態

のようです。

 

そして私が疑問に思ったのは2番の方々でした。

暇だけど退屈ではないってどういうことだろうと思いました。

結構内容はシンプルで暇のとらえかたを時間があると捉えていたようです。そして退屈ではないということは3番の方々と同様にしたいことが出来ているということがありました。

 

 

その事を聞いて私はしたいことが出来ていないから退屈なのかなと仮定しながら1日の行動を振り返ってみました。

私毎日少しの筋トレと肩回しを自粛期間中続けているんですけどこれはしたいことを続けていることになります。それと薬品成分など気になったことは寝る時間削って調べてるし、最近は講義があるから出来てなかったけど、羊毛フェルトや色塗りなどその日にハマったら全て放置して何時間も割いてしたりします。後、私は好きなコーヒーがあるのですが、近所のスーパーでそれだけ何故か美味しいフルーツタルトを買ってコーヒーと一緒に家でお昼におやつとして食べるのが好きです。したいことが出来ている、こう考えていくと次第に退屈してないのかなと思えてくるのですが、あの講義の時の私の価値観は明らかに今の現状は退屈だったんですよね。

 

もうそろそろ訳が分からなくなりそうですが、キャリア形成の講義で性格診断や適性検査はその時の心理状態によって左右されるからいい事や悪いことがあった日ではなくていつも通りの日に受けてみてねって言われたのを思い出しました。つまり私が今の生活が退屈だと感じていたは講義の時間の前後になにかあったんじゃないかなと考えたんです。

そうするとありました。ゼミの後の講義に小テストがあって、前日の夜からゼミの開始前まで勉強してました。その勉強している時に退屈していたのでは無いかと仮定してみます。

 

勉強している時の私の感情を分けると無か退屈かって感じなんです。ただ正直、何かに集中してる時、私は楽しいとは1ミリも思いません。だから趣味や、したいことが出来てる時もほとんど無の状態です。じゃあ勉強もしたいことが出来ているから退屈ではないじゃないかとなります。

 

違います、小テストの勉強も検定の勉強もする前までが面倒くさいと感じ、その過ごしている時間を退屈と感じます。他にも私の場合は制限される、強制されるものに嫌気が感じやすいようです。ただ集中しだしたら基本何事も無でした。

 

つまり、あの時の私が退屈と感じていたのは、前後の環境要因によるものだったのだと考えました。

堅苦しく描きすぎましたが、結局、しないといけない事があったから現状に嫌気がさしてたってことだと思います。

 

一方で制限がなくても全くすることがなくてそれが退屈だと感じるという批判もあるかも知れません。することがあってもなくても退屈と感じるのは何とめんどくさいものです。

 

全くすることがないってどんな状況かなと想像してみましたがなかなか難しいものですね。ただ、全くすることがないというのは自分に制限をかけていることだと考えてみました。例えば何も出来ないと思う制限下では何もできません。

 

この仮定は、いやいや、何かしたところで退屈なんだよと批判することもできるかと思います。よって、ここでのポイントは自分がしたいと思うことへの制限を外すことが退屈ではなくなるという考え方です。例えば今日、テレビで見たあのレシピのご飯を作ってみようと自発的に行った調理時間とお腹がすいて仕方なく生きるためにご飯を作る調理時間では過ごした時間の捉え方が異なると思うからです。

 

以上のことを抽象化してまとめると、退屈とは何かに強制、制限の元で自身が行動しているという意識を持つことによりその状態に嫌気を感じる心理状態である。

 

と私の中で一応考えました。これだけにばかみたいにタラタラと書き続けてしまいました。相変わらず私の思考回路はとろい。何とかまとまってよかったです。

 

やっと今回のお題、暇とはなにかについて書いていこうと思います。暇と退屈ってよく一緒に捉えられがちですが、じゃあ暇と退屈はイコール関係なのでしょうか。

 

暇について私は1ミリもマイナスイメージがありません。というのも暇大好きなんですよね。なんなら自分から暇を見つけに行くみたいな所まであります。もうまたよく分からなくなってきました。

 

暇の定義では何もすることがない時、また、仕事の間の忙しくない時間などともあります。

 

私が退屈の具体例で何もすることがない状態を提示しましたがこの状態はもれなく暇になると思います。つまり、暇だから退屈も成り立つということです。

 

では全て暇な時間は退屈なのか。

 

ここで高校の時の昼休みを想像してみました。授業後と次の授業前の間の空き時間を暇と定義します。

私が過ごした休み時間はクラスメイトのギャグや一発芸を友達と笑いながら過ごしたり、毎日話してるのに尽きないしょうもない話を友達としたりする時間で、休み時間が楽しみでした。また、前日の課題が沢山でて、終わらなくてクラスの大半が机に突っ伏して寝てるだけの休み時間もみんなで一緒に睡眠補給してるみたいで好きでした。

 

これって退屈なのでしょうか。私は違うと思います。ただ暇と退屈は和集合みたいに互いの要素が噛み合う時もあると仮定することにしました。

 

しかしその事によって暇は制限のない時間だけだとは仮定でき無くなってしまいました。またよくわからなくなってきました。

 

では次に例えばYouTubeを見るとします。これは誰からの強制もなく自発的に見ているものです。そしてその時間は暇に値するとすると、暇は制限の有無が関係がない時間となり、自分でその時間の過ごし方を選択できます。例えば次の日はYouTubeじゃなくて映画見ようとすることができるということです。

 

では次に、暇を自分がしたいと思って割いた時間として、考えていいのでしょうか。例えばサークルに入ったとしてその活動時間は暇に値するのでしょうか。それは暇にはならないと思いました。なぜならその時間は自分で動かせる流動的なものでは無いと思うからです。

 

つまり、暇とは強制や制限の有無は関係なく、生み出された時間であり、自分で行動を選択出来るものと仮定しました。

 

全然上手くまとめきれなかったので、反論はもちろん認めます。一気に書いて少し疲れたのでここら辺で終わろうと思います。

 

おわり!