ぴーちかのブログ

モリタゼミ/3期生

ゼミ活動記録No.26古典②

お疲れ様です!☺︎

さっそく前回の記録をしていこうと思います。

 

前回は映画「君の名は」が古典文学をモチーフにしているということで、深堀していきました。

 

私の「君の名は」についてのイメージはとにかく色使いが綺麗!音楽と映像が一体となっていて、流れ星のような、流星群のようなシーンが映画館で見てめっちゃよかった!っていう印象がありました。

 

この映画の題材に用いられたの古典文学としては主に二つで、題名が「君の名は」に決定される前の企画書に書かれていた題名が『夢と知りせば(仮)-男女とりかえばや物語』だったことから、古典文学のとりかえばや物語と、小野小町の夢としりせばのようです。何となく言われてみれば聞いたことあったような…って感じでした。

 

とりかえばや物語とは、男勝りな女の子と女の子のような男の子のキョウダイの男女を入れ替えてしまう、男女逆転物語の先駆けのお話だそうです。お話を聞いていて、高校の時にそういえば、父親が自分の子供の性別を取り替えたいなぁと思うという一節を読んだ記憶があります。

 

この作品から男女入れ替え物語りというのが作られたそうです。ただ、どの作品も共通して元の性別に戻ってしまう、最終的には社会的枠組みの中に戻ってしまうものだそうです。

 

ただ「君の名は」男女入れ替え物語りの中でも、時間軸をずらして作られていたり、入れ替わったもの同士が恋に落ちていたりという違いがあるそうです。

 

また、この恋というところに、小野小町の作品を組み合わせているのかな、と思いました。

 

六歌仙の一人として有名な小野小町は私からみると独創的な恋愛体質の肉食系女性という感じでした。

今回、モチーフにされたのは、以下の小野小町の夢三部作のうちのひとつの歌です。

 

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを (古今和歌集)

(想いながら眠ったのであなたが〔夢に〕見えたのでしょうか夢と知っていたら目覚めなかったのに)

 

今とは違い、昔は夢に出てくると相手が自分を思ってくれているから夢にでてきたという風習がある際に、小野小町は、自分が思っているから相手が出てきたという考え方!これって実はかなり凄いことなのだと思います。私は一般教養で教育論を取っているのですが、教育論では、新しい考え方や概念、思想っていうのは強く根付いていて、受け入れてもらうこと、生み出すこと、新たな角度から見直すことというのはかなり難しいことです。少し違うかもしれませんが、歌を詠むことでその新しい価値観に共感を得てそれが人気となるにはかなり難しいことなのではなかったのかと思います。

 

この作品が夢の中で入れ替わっているあの「君の名は」に使われている所ではないかと考えられそうです。「君の名は」では夢の中に相手が出てくる訳ではなく、夢の中で入れ替わっている現実のあの人に会いたい、会いに行きたい、この儚い学生時代の青春に、すごく心が揺さぶられる、葛藤している思春期の思いを映画に閉じ込めているのかな、と思いました。(必死にえもいで終わらせないように頑張ったのですが、語彙力!)

 

また、小野小町は他の作品でグイグイさも見ることができます。

 

いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る(古今和歌集)

(とても切実にあなたを恋しく思う夜は、“好きな人が夢に出てくる”と噂のおまじないに頼って、夜着を裏返して寝るのです。)

 

自分から相手の夢に出ていこうとする攻めの姿勢…!!肉食系ですね!私は、今実際にこんなことされてたら引いちゃうけど、昔の女性は男性を待つことが主流とされていたからこそ、男性からは、可愛らしい女性だなというような好感を、女性からは分かるわ〜という共感を得て、多くの人を魅了していたのかもしれませんね。

 

また昔の人は本を読む=本を書くこと、ストーリーをもらってくること、作品を引用してアレンジすることが自由とされていたそうなので、作品が変奏するのは、悪いことではなかったそうです。

 

そして今回のテーマは

物語を引用・変奏しながら表現したい内容とは何か。

 

私は何にしようかな〜と何となく考えたらハウルが思い浮かんだので、ジブリハウルの動く城について考察していこうと思います。

 

まず、ハウルの動く城にはもちろん原作があります。原作はイギリスの作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』(原題;Howl's Moving Castle 1986)です。これを元に作られた作品がハウルの動く城なのですが、魔法を使えるため結末がふわふわとしている、急に原作にはないキャラ、戦争というテーマ、モチーフが出てくる、宮崎駿は原作に遊ばれた作品などとまぁ批判が多く、逆に好きな人はかなり好きと賛否両論がキッパリ分かれた作品だそうです。

 

でも私は宮崎駿監督が何のテーマも無く、この作品に仕上げたとは思えません。

私は好き派なので、嫌い派の方はごめんね、って感じでこれから考察していこうと思います。

 

ハウルの動く城を一言で説明しようとすると、少し無理がありますが、魔力を手にしたヘタレなイケメンが、守る人達のために戦おうと決意して戦ってたけど、結局守りたい人達から守られる。って感じです。

この映画には原作にはないシーンが沢山盛り込まれています。

 

例えば、最初、帽子屋のソフィーという女性が兵士に絡まれている所を偶然、ハウルは出会い助けたかのようなシーンからストーリーが展開します。ですが、実は最後のシーン辺りにソフィーはハウルを助けるために、指輪の効力を使って運命を辿って幼少期のハウルに出会っていたのです。そして、「ハウルー、カルシファー!あたしはソフィー!待ってて、あたしきっと行くから!未来で待ってて!」とセリフを言うと指輪の効力が切れ、過去から現実に引き戻されてしまいます。

 

そして、ソフィーとハウルの偶然の出会い頭には、ハウルの指輪がソフィーの方角を示しています。

偶然は必然に生じる、なんか運命を信じさせてくれるような伏線です。

 

他にも原作にはない演出があり、良さが散りばめられていますが、ここでは長くなるので、後2つだけ書こうと思います。

 

次のオリジナルの演出は、ソフィーは荒地の魔女からおばあちゃんにされてしまいますが、映画の中で急に若返ったり、また老けたりしてしまいます。原作にいつ若返ったり、老けたりするかは、明示されていません。映画では、ソフィーは劣等感をもっているキャラクターで、後ろ向きな発言をするとおばあちゃんに、前向きな発言をするとどんどん若返っていきます。

 

これは歳をとることが悪いと言うことを伝えたいのではないと思います。千と千尋の神隠しでは、千尋の発言で自分の運命を決めたのだといわれていますし、自分の言葉で自分の運命を左右することを伝えたいのかなとおもいました。

また、宮崎駿監督は

「呪いが解け、おばあちゃんが若い娘に戻って幸せになりました、という映画だけは作ってはいけないと思った。だったら、年寄りは皆、不幸ということになる」

「大切なのは彼女(ソフィー)が年を忘れること。原作には、いつ少女がもとに戻るか書いていない。作者のダイアナ・ウィン・ジョーンズが言いたいのは、歳は問題じゃないということだ」

と語っていました。

 

2つ目は、ハウルの動く城のおんぼろな形です。

これは原作では女性が好むようなお城のような演出だったそうです。この映画で用いられたおんぼろな形は、ハウルの見た目が良い、表面では調子よく、格好をつけていますが、実は自信がなく、心が弱く、責任から逃げているような内面の性格を表しているものだと言われていします。ハウルは原作でも映画でもしっかりダメ男にお互い描かれいるそうなのですが、このハウルの人間らしいところ凄く好きですね。

 

また、宮崎駿監督は全ての映画に対して、

「基本的に子どもたちにこの世は生きるに値するんだということを伝えるのが、自分たちの仕事の根幹になければならないと思ってきました。それは今も変わっていません。」

と言うメッセージを込めて作られているそうです。

 

作品事に伝えたい思いは変わるのかもしれませんが、原作をモチーフにして、映画を通して論理で解決できない人間の情緒的な面を映像で紡ぎ出しているのかなと思います。また、ハウルの動く城に関しては、歳をとるということは悪いことでも、問題でもない、自分の運命を決めるのは自分であるということでしょうか。

 

上手くまとめられた感じはしませんが、作品に対して筆者がどんなテーマを伝えたいのかという意識を持って見るのと、何も考えずに見るのではまた違う楽しさがあるなと今回感じました。

 

 

次回はいよいよ最後の古典、3回目です!たのしみ!

 

 

 

おわり!