ぴーちかのブログ

モリタゼミ/3期生

差別について

お疲れさまです☺︎

 

いよいよ哲学に入っていくと言うことで、今回のお題は差別についてです。日頃あまり読書をするタイプではないので、読解力の不安が否めませんが、なんとか記録していこうと思います。

 

ゼミの活動形式としては、オンライン上で5つのグループに分かれて差別についての輪読していきました。そして今回はAからDまで自分で読んでみて、わかったことをまとめて、それについて考えたことを書いていこうと思います。

 

Aについて

 

差別とは悪意に基づき、また、悪意=攻撃性と言える。しかし、攻撃性(アグレッション)は人生の豊かさに通じており、攻撃性があるおかげで人類は発展してきた。(例えば攻撃性があったからこそ、人間は行動様式、向上心が発展した。)

 

よって、悪意を排除すべきものと批判をすることは、攻撃性の批判となり、人間の発展性を排除するものとなるから単純にしてはならない。

 

Aの文章についての私の解釈ではこんな感じでした。

ひとつのパートをのぞいてだいたい大まかな内容は分かってきたのですが、まだ少し理解が難しいところがあり、そこはまだ考えてみたいと思ってます。

 

私は極端なので、ここの文章を読んでみると、それなら悪意をむしろもっと増大させていった方がいいんじゃないかと思ってしまいました。悪意が人生を豊かにするなら、悪意に罪責感なんて抱かなくていいじゃないですか。しかし、Bを読み進めると、私みたいな人へのベストアンサーみたいな解答をもらった感じがしました。

 

Bについて

私たちは合理的、非合理的理由から不快を感じてしまうが、それをできるだけ表に出さないように賢く振る舞っている。また、差別に対して、社会統制が厳しくなればなるほど、内的制裁としての感情統制も厳しくなる。

 

その理由として、一つ目に、人間は他人から不快に感じられたくないし、そう感じられていると自分が傷つくからである。次に、人間の感じる硬い差別感情意識に基づく不快は、社会的弊害が大きいため「差別感情」と定義され、その不快を表出すことは身の危険を招き、社会的に葬り去られてしまうからである。

 

BについてはAよりもすんなり納得できたところが大きかったです。例えば女性や人種差別について実際になくなってはいないと思いますが、それを表出ししてしまう人は確かに身の危険を招いているのではないかと思います。(今だと全米に広がっているデモなど)

 

ただ、"自分がされて嫌なことはしてはならない。" "多様な価値観を認めていかなければいけない。" "人種、民族、性別で差別されてはならない。"そう私が教わってきたものの根本の理由が、ただ人から不快に感じられていると"自分が傷つく"からである。そう言われてしまうと、すごく滑稽に見えてしまいました。

 

つまり、人は自分が傷つくのが怖いから差別はいけないものだとし、硬い差別を社会的弊害として社会的統制したと言うことでしょうか。

 

もちろん、差別が良いと言いたい訳ではありません。差別意識を排除しなければいけないことなど言わずとも正直、暗黙知されているとおもいます。しかし、その価値観は、自分が傷つかないようにするために作られたものだと考えると、なんか、利己的な思想からきているものだと感じてしまいました。

 

Aと合わせながら考えると、自分と他人と比較し優劣を付け自ら差別を作り、自らの傷つきを恐れ差別を排除しようとする。

自分の悪が主体となっていますが、その悪を抑えることで自分を守る。なんか人間は自分自身に振り回されているように思えてしまいます。これが先程、揶揄した理由です。

 

 

Cについて

アイデンティティを確立した人の多くは国や民族、故郷や出身校など帰属意識や集団に対して愛を持っている。しかし、行き過ぎた愛は差別感情の温床となってしまう。日本でも、家族愛に対しては露骨な愛情を注いでも許される唯一の組織として家族至上主義がある。多数派は家族を愛することは自然だとして、それを欲していないものを頭から批難して排除している。

 

(例えば、祝福を期待し大きな顔をして家族についての報告する際には、既に少数派の人たちに対して、潜在的に加害者になっている)

 

Cを読んでみての感想は、わからんくもない。そんな所でしょうか。コロナ感染拡大予防の際には、抑制がうまくいっているのは国民性だのなんだのいって日本人は多少日本に愛をもっているんだなと感じます。少しこのパートの論点とはずれるかもしれませんが、私は愛、帰属意識がなくても、同じような被害は起こるものもあると思いました。

 

最近耳にした本の名前に「多分そいつ今ごろパフェとか食ってるよ」の題名を思い出しました。まだ読んだことはないのですが、多分この本には無意識下の差別意識、それによって傷つけられた人の内容なのではないかと思えてきました。そう考えると今まであまり興味がなかった本に興味が湧いてきて、変な感じです。少しそれましたが、言いたいことは、これって帰属意識、またその愛から傷つけられたのでしょうか。

 

また、ある常識に対してそれが善とされている時、その常識を逸脱しているひとは、よく批判されています。この文章を読んでみてなんか出る杭は打たれるという言葉がぽんっと思い浮かびました。

いきなりの革新や天才、身近なところでは政治的方針などに対して、いわゆる周りの常識人、誰が認めたかよくわからない専門家が偏った見方で批判しているなんてことはよくあります。これが帰属意識からの愛からとして、その被害者は上記の被害者とダメージは違うのでしょうか。

 

Cの内容をふまえると、その常識の押し付け、アピールは、きっと必要としてない人への暴力、つまり相手を傷つけているということですよね。しかも悪意なく、無意識化でも生じるものもある。

 

なんか立ちが悪いです笑

でもなんとなくわかる気がします。相手が無意識、無神経にいった言葉に対して、自分が傷つくなんてことはよくあるんじゃないでしょうか。

 

よくわからなくなってきましたが、帰属意識の愛がある場合の差別と、帰属意識の愛がない場合に生じる無意識下の差別は成立するのか、またその差別による相手への傷のつけ方は何が違うんでしょうか。傷つけられ方を自分で分類できれば、それにうまく対応できるようになるのかもしれないですね。

 

Dについて

差別意識を持たないことは、ほとんど不可能である。その理由は、子供の時から良いことを目指すように教えこまれているからである。これによって、良いことへの価値観に反している者、自分より劣っている者を自然と制度によらない差別として蔑むが、差別を悪いこととして、してはいけないと教育される(表出ししてはならない)。また差別をしないとしても、自分の能力が優れていた際、誇らないことによって、自分が得をすることを学び、内心は周りよりも優れていると誇らしく思う。

 

ここを読んでみて私は、差別をなくすことは"ほとんど"不可能というところに可能な可能性を完全に否定できない理由はどこにあるんだろうと思ってしまいました。(正直、ここの言葉遣いはそんなに重要視することろではない思います。でも私のブログだからいいよねと思って書きます笑)

AからDまで散々差別があると立証してきたのになにがそう書かせるのでしょうか。白い烏のように悪魔の証明になるからでしょうか。もしかしたら筆者は差別のない人を求めているのでしょうか。

 

私はこの差別についての文章を読んでみて、悪意についてもっと知ってみたいと思いました。人生を豊かにするために攻撃性がいるとして、攻撃性は悪意から生まれるとし仮定すると、他人と比較して自分の優劣をつけるのは全て悪意なのでしょうか。

悪意の定義として、

他人を憎み、害を加えようとする気持ち

とありました。

 

正直メウロコする、納得するところが多かったです。でも私はどうしても人生の豊かさはが悪意だけに基づいているとは考えたくない思ってしまいます。それは私も小学生からよいことを擦り込まれているからかもしれません。もしくは自分が傷つくから悪意を恐れているのかもしれません。それでも嫌なものは嫌です。笑

 

私は困っている人を助けるとき、その人が私よりも劣っているから可哀想だ、助けようなんて思っていないんですよね。無意識下に思っていると言われたらもうなんとも言えませんが、ただその人のために手伝いたいと思うことは無性のギブという感覚が近いです。自分が相手のためにしたかったらしただけで、相手に何も求めておらず、得られるのは結局自己満足だけなのかもしれません。もしくは他人と比較して誇らしくおもっているのでしょうか。でもこれって悪意なんでしょうか。

 

もし、ネットなどを利用して、自分の知りたいこと、興味、関心に対してそれを利用し、他人ではなく過去の自分、今の自分、未来の自分と自己比較していくような教育をしたら、もしかしたら悪意のある差別はなくなるのでしょうか。なくならないんだろうなぁ。

 

今回少し哲学に入ってみて、哲学は答えが数学のように答えが決まっているわけではなく、また決まっていたとしても捉え方によって人と異なる可能性があり、正直、難しいなと思いました。私はよく観点が変だと家族に言われたりするので(私的には家族の方が変) 間違えているかどうか不安なところもあります。のびしろですね、、!!

 

ブログを夜に書くと考え出して、眠れなくて徹夜体質になり、結局日をまたいで書いてしまうので、今度から夜にはやらないことにします。

 

おわり。