差別について②
最近車校に通い始めて、自分の運転ポンコツすぎて、運転できる人にかっこいいエフェクトがかかり始めています。どんな状況で脱輪するのか、ハンドル操作、ブレーキの掛け方、分析するだけでブログ書けそうです、、、とりあえず脱脱輪!!!
前回に引き続きテーマは差別についてです。今回はそもそも哲学はどういったものなのか、また2つのお題についてグループで分かれて考えていきました。
哲学という営み
知識や価値観は磁力(親和性と排他性)をもつものであり、哲学とはその既知の知識を揺さぶることだそうです。
具体例で知識について右翼左翼の話があり、すごく納得してしまいました。私は少し右翼寄りなので、左翼が批判している右翼の行動内容を調べたりするからです。あまり自覚はなかったけどこれは自分から都合の良い情報を集めにいっているものだと思いました。
また、知識は毒にもなる、脱げない鎧というお話もあり、その鎧を脱げるようにするもの、知識を疑ってみるものが哲学なのだと思いました。
哲学的な問いとは
大抵の人にとって当たり前の土台が疑わしく見えたときに哲学的な問いがたち、その共有は考えたことのある人同士、問いがリアルに思える人としか行うことが難しく、孤独な問いになってしまうそうです。
確かに考えたことない人にいきなり興味のない話を共有しても相手は何言ってんだって感じですよね。
哲学の問いは孤独な問いになるけど、ゼミではみんなでやってるから恵まれているなと思います。
哲学対話とは
対話とは議論でも会話でもないものですが、決して答えを出さないものではないというものです。
自分の言葉でゆっくり話し、相手の言葉の中にあるものを共に探ること。自説や自分の価値観を守ろうとせず、相手の言葉によって揺さぶられることを恐れないことで、自分の価値観や固定概念を解体していくことができるそうです。
以上のことを踏まえてグループで分かれてお題について話し合って行きました。
お題
①なぜ我々はあなたは差別していると思われたくないのか?
②差別をしたくない場合、どうすれば良いか?
あるいは、そもそも差別はしてしまっても仕方がないものなのか?だとしたらなぜ世の中はかくも差別はいけないと言われているのか?
私たちのグループで話し合った内容はこんな感じでした。初めはお題について意見を出していっていました。
差別してると思われたくないのは、それまでの社会的統制、教育で差別はだめだと教わってきたり、人は他人に悪く思われたくない、自分が差別されたくないからこそ、自他共に差別をしてはいけないということを求めているのかなと話し合いました。
次に2番目のじゃあ差別をしたくない場合、どうしたらいいのかを考えていった際に、少し詰まりました。
差別をしたくない場合は個性として捉えたり、相手に無関心でいたりすることが考えつきました。しかし、それらは差別にならないのか、また、無意識で行っている差別はどうしたら良いのか、と考えているうちに差別ってそもそもなんだろう、どこから生まれてくるのだろうと思ってきたからです。
差別をなくす、減らす(それが良いかどうかはいったん置いておいて)には、差別の捉え方が共通のものにならないと難しいのではないでしょうか。
そういうわけで一つフェーズを落として差別とは何かを考えてみました。
講義後からずっとたらたら考えていて火曜日まで来てしまいましたが、カワウソカフェに行ったことを思い出しました。
カワウソを愛でにカワウソカフェに行ったのに、飼育員さんから聞いたのはカワウソは実はえげつないいじめする話です。3匹以上ゲージに入れるとすると
必ず多数派と1匹に分かれて、多数派みんなで1匹だけをいじめるそうです。また、いじめられたカワウソを隔離すると他のカワウソが1匹仲間外れにされていじめられるそうです。
エンドレス!
その時はカワウソ闇深すぎると思ってたんですが、調べてみると他の動物も同じようなことがありました。
これは野生で生き残るために動物的本能的性質の一つに、強いものが自分の餌や地位を獲得するため、弱者や異端者を排除するためのようです。
人間には理性がありますが、果たして動物として競争してきた本能の名残はもうないのでしょうか。
私はあるのではないかと思いました。だからこそ、人は差別に対していけないと思い、制御しようとししているが、無くすことが難しい。
では、差別をなくすのは無理なのでしょうか。
それは嫌だなぁ。というのが個人的な意見です。
差別はなくならないものとして考えるのが妥当なのかもしれませんが、相手のことを客観的に捉えたり、肌や性別、出身、民族で優劣がないことを理解したりするなど、少しずつ差別をなくすために今私が考えつくものです。
また今回ブログを書きながら理性ってなんだろうなとずっと考えていました。これを次回への質問にできたらと思います。
おわり!