ぴーちかのブログ

モリタゼミ/3期生

差別について③

お疲れ様です☺︎

 

前回から引き続き哲学対話を続けていきました。

今回はAとBについての対話のフィードバック、また、CとDの文章について問いを立ててはなしていきました。

 

1つ目は、われわれは自分が持っているコミュニティに対して、他の人も同じように愛着を持ってもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そして、その気持ちは持っていて良いものなのか、それとも制御すべきものなのか?また制御するとどうなるのか?
2つ目は、怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?

 

の2つです。2つ目についてはあまり話し合うことが出来ませんでした。しかし、1つ目については話して、自分でも考えることができたので、記録していこうと思います。

 

1つ目について話し合った際に、まず人に対して、物に対してで他人にも愛着を持ってもらいたいという気持ちが変わってくるという話が出ました。

 

まず、物に対しては相手におすすめしたい、物に対しての愛着は、自分の持っているものの良さをもっと周りに知って欲しいという気持ち、また実は内緒にしておきたいけど親しい人(コミュニティ)には教えたくなる、共有したくなるということがありました。

 

また、ヒトよりもモノは紹介しやすく、話しやすいのは、モノは自分の構成する一部であり、否定されてもそこまでダメージがない。逆にヒト(コミュニティ)に対しての愛着は、自分を構成している大部分のものになるので、否定されたくない、ダメージが大きいという意見がありました。

 

具体的に考えてみるとわかりやすかったです。私は自分の家族の批判より、おすすめの口紅の批判のほうが心のダメージが少なく、この意見にすごどうでした。

 

次に人に対してはさらに2つにわけることができるという話になりました。それは自分が持っているコミュニティに対して他の人とも同じように愛着を持ってもらいたいという人と、そうとは思わない人です。

 

私はどちらかと言うと後者の方でその人はその人の考え方でいいよなと思ってしまいます。

具体的には、その人の考え方を良いか悪いか、受け入れることができるかを考える訳ではなくて、その人はそういう考えなんだなと分けているという感覚です。冷たく思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は正直、違う境遇、生き方をしてきている人同士で、自分と全く同じ思考、価値観を全く同じ体温で共感することはできないと思うからです。

 

よって、その人はその人に合うもの、好きなコミュニティを選んだらいいし、その愛着を他の人へ押し付ける意味は特にないと思ってしまいます。

 

愛着については以前、頭が痛くなるほど考えましたが、私が強要したところで、相手がもつものではなく、相手がそのきっかけを掴み自分で紡ぎ出していくものであり、愛着もその人により強度が違うと思います。

 

次に、コミュニティへの愛着を同じように持ってもらいたいと思う人は、モノを共有すると同じように相手にも良さを知ってもらいたいというものと、自分が一般的、普遍的であると捉えたいという気持ちから、相手にも押し付けてしまうものがあるということでした。

 

この場合、制限が必要かどうかについて、私は自分の価値観、考え方に合うコミュニティ内での共有が良いのではないかと思いました。

 

例えば、同じアイドルが好きな人同士がそのアイドルの良さを話したり、好きな曲を共有したりすることは、そのコミュニティへの愛着が深まると考えます。しかし、興味がない人に話したところで、相手は強要されつまらないと感じる、また話し手側は共感してもらえないことで自分がおかしいのかとおもったり、つまらなく感じたりすると思います。

 

私は、自分と同じように自分のコミュニティに愛着を持ってもらいたいと思った場合、最終的には自分の意見を相手へ押し付けるものに繋がっているのだと思います。また、その価値観は自分を形成しているものであり、悪いものではなく、決して全て制限しなければならないものでもないとおもいます。

 

ただ、自分の意見を一方的に相手へ押し付けることは、相手の価値観を否定する可能性もあります。その場合は制限すべきものになると思います。

 

自分の視野の幅を広げ、相手の立場、相手の価値観、相手コミュニティにも目を向けることは少しは、無意識のうちにおこなってしまう差別の抑制になるのではないかと思いました。

 

しかし、この考え方はこの考え方でまた差別をしてしまっているのかもしれません。またこれをおこなったところで、愛着を共有する、せずに関わらずともまた無意識下、潜在化で差別を行なっているのかもしれません。

 

本当にどうしたらいいんだろう、、、

こうして、ずっと考えていると差別がいじめの捉え方に似てきたところがありました。相手がいじめと捉えた時点でいじめというような感じで、相手が差別と捉えたところから差別になるのではないかと思ってきました。

 

すると価値観が一緒でない人間はやっぱり差別をなくすことなんて無理だと思います。

 

ただ、だからといって差別しないことを諦めるというわけではなく、お互いに生きやすいように、理解できないところや、不快なところも、単に否定せずに、互いに少しずつ折り合いをつけて生きていく。

 

 

そうしていくことしか今の私には思いつきませんでした。ブログを書いていても中々思考がまとまらないというのが哲学の難しさというか、、ごちゃごちゃしました。まだまだ浅いなぁ、、悔しい、、

他の人のブログも読んでみようと思います。

 

 

 

 

おわり。