ぴーちかのブログ

モリタゼミ/3期生

ゼミ活動記録No.25成長と古典

お疲れ様です。☺︎

最近皆さんいかがお過ごしですか。

私は、課題に指が腱鞘炎ですが、まだまだ課題は増えそうです、、、もう!

昨日は車校の先生に週末何してたの、天気良かったのにデートとか行かなかったの〜、課題だけ?とか言われてメンタルはゼロです!!今、修造にあいたい!お前は富士山だって言ってもらいたい!!そんな今日この頃です。笑

 

さて今回は前回分と前々回分を合わせて記録していこうと思います。

 

 成長

まず、前々回のゼミについて、

森田先生から哲学についての雑感、フィードバックをいただき、成長できる人ってどんな人だろうと考えていきました。

 

フィードバック

森田先生からのフィードバックで印象に残ったのはまず、思考のプロセスをとりあえず一旦アウトプットして整理しておくことで、結論を答えとして終わらせるのではなく、またアウトプットと対話していくという点、次に相手からの発言に素直に揺さぶられるのも一つの力だけど、揺さぶられぱなしで自分の殻から出られないのはよくないという点でした。

 

一つ目の点については、結論をふるいにかけていくような印象があり、新しいインプットが増えた自分で昔の自分の結論を見ることで結論を鋭く、または形をかえるようなイメージを持ちました。

すごくふわふわした言語化になってしまいましたが、結論はその時点での結論として捉えることはそこで成長を止めない意味をもつのかなと思います。

 

二つ目の点については、お話を聞いて私は相手からの意見に対して揺さぶられやすいと思っていたけど、本当は揺さぶられてないのかもしれないなと思ったからです。それは相手の意見を聞いてそれいいねと一旦飲み込み、同調することがあっても、それをその場だけに留めてそこから自分のものにしない、受け入れていないときがあるんじゃないかと思ったからです。もちろん、相手にもよるのだと思いますが、まず一旦飲み込んでみるところからもう一つ先の自分にも取り入れてみる、そのことを次回から意識して取り組んでいきたいなと思います。

 

 成長できる人とは

次に先生から頂いたお題は成長できる人ってどんな人だろうというものです。

 

私たちのグループはまず、周りにいる成長できる人ってどんな人だろうと話し合いました。そして、振り返る人かな、目的をもって行動している人かなとか成長できる人についても話していましたが、そもそも成長ってどういうことなんだろうねというところが話のほとんどを占めていました。

 

例えば、最初から出来ることは成長とは言えないのではないか、目に見ないものは成長ではないのか、などと話していきました。

 

成長ってなんだろうと考えて詰まってきたら、じんくんからのパスで成長できない人ってどんな人だろう、や森田先生から振り返るって言っても子どもの絵本を今見ても成長してることなのかななどの意見をいただきました。

 

そのことを通して、まず、成長には意識面、無意識的(生理的)な面があると考えました。

前者は自分が意図的に行うと決めたものや、意識的に行うものです。後者は無意識的なもので、その人の感覚や本能的なものも含まれると思います。例えば赤ちゃんの成長寝返りなどはこちらになると考えました。

 

以上のことを通して、意識的な成長とは、目に見えるもの(=形になる事が実現する)だけではなく、目に見えるように行動、試行錯誤、など結果までの努力部分であり、それを行える人が成長できる人なのではないかと考えました。

 

またその成長がわかるときとは、その時点での自分の振り返りだけでわかるものではなく、昔の自分を振り返るときや、周りから分かるものであるとしました。

 

他の講義での話し合いや、グループディスカッションでは、抽象的な概念の定義をこうしましょう、と定義をさくっと決めてから話し合う事ばかりだったので、定義をじっくりと丁寧に話し合えるのは貴重で良いなと思います。私はまだ実家にいるので、母親は丁度ゼミの内容が聞こえていたようで、あなたはそんなしょうもないことを話しててバカなの。なんて言われてしまいましたが、母親からしてみれば哲学に触れたことがない訳で、ああ、これが哲学では基本共感されないことなんだろうなぁと思いました。んー。相手に理解して共感してもらうのは難しい。。

私はまだまだ話し合いの経験値は足りてないのでこれからも経験していきたいなとおもいました。

 

古典

次に前回の古典についてです。  

古典について、大きなテーマとしていただいたお題は古典は本当に必要なのかについてです。

 なぜ古典を勉強するのか

まず、一旦そこから、古典についてのなぜ古典を勉強するのか、皆さんにとっての古典とは?という問いをいただきました。

私は古典についてのイメージは私はかなり暗記のイメージがあって、ひたすら文法の小テストしてた記憶がありました。後、高3のときの国語の先生が内容が同じようなテーマごと課題に出す人だったので、ひたすら女性がさまかえなむが続いて、嫌なことあったらすぐみんな出家しよるなと思っていました。

なぜ勉強するのかについては社会学的な歴史面のところだけではなく、文学面から歴史、背景、昔の人の知恵や思考などを学ぶことができるからかなとおもいます。

 

なぜ古典を勉強するのかについて他の意見や、横山先生から頂いた回答は

純粋に楽しいから。ストーリーの楽しさや昔の人と繋がる感覚がある。日本のアイデンティティとして所属する文化の古典や歴史を学ぶや、現在の逆照射をする。近代を相対化できる装置であり、今の常識を疑うなどがありました。

 

確かに話を聞いていて、純粋に楽しいとか忘れていた感覚を思い出していました。今の直接的だとめちゃめちゃメンヘラな内容も、古典では、暗喩や様々表現技法で間接的に表現された文章は美しいとされていて、確かに上品さや興味深さや面白さ、に触れるって楽しいものだったよなと思いました。

 

硯にむかひて

そして話は兼好法師徒然草の「硯にむかひて」の解釈から話はどんどん広がっていきます。

硯に向かうって変じゃないか。なぜ机じゃなく硯なのか。

聞かれたら確かに何でだろうと思いました。中学の時の先生からは机に向かうことと同義だと教わった記憶があります。 

 

ではなぜ兼好法師は硯にむかいひてを選んだのが、これを調べるの方法としては、

まず、同じ作者の他の作品を読んでみて、他にも同じ表現がないか、作者の癖などを調べること。
次に他の時代に同じ表現はないのかを調べることによって、作者がそれを用いた可能性について吟味することでした。

 

ここで、具体例として米津玄師さんのlemonについてレモン哀歌を参考に作られたのではないかというお話を聞きました。話を聞いていてジブリも似ているなと思っていて、オマージュとしてできたその作品の背景を知るとその参考にした人の博識に驚かされます。

 

そして兼好法師は、なんと源氏物語から影響を受けているらしく。源氏物語に硯に向かいひて、という表現は手習い(物書き、読み書き)として、人に言えないもの、悩みを発見する手段として使われていたようです。ひとつの硯にむかひてというワードからの話の広がり方に、正直、驚きました。また、全然違う時代、分野の内容なのに自分の作品に落とし込み、その作品に含みをもたせる兼好法師凄いなぁというのがシンプルな感想です。

 

次回は君の名はは古典文学の引用をしているので、そのテーマについて理解を深めていくようです。

楽しみです!

 

おわり!