ぴーちかのブログ

モリタゼミ/3期生

ゼミ活動記録No.27古典③

 

お疲れ様です!☺︎

今回は教養の古典3回目について記録していこうと思います。

 

今回も、大阪工業大学の横山先生にお越しいただき、源氏物語について考えていきました!

源氏物語とは三部構成になっており、

第一部源氏の誕生から天皇になるまでの全盛期

第二部源氏天皇になってから死ぬまで

第三部源氏の死後、子孫たちの恋と人生の話

になっています。

 

ちなみに第三部のお話については、源氏よりも魅力がないや、終わり方がもやもやしたり、救いがないということで、第4部として続編を山路の露とし、創作されたそうです。

 

では、なぜ紫式部は三部をつくったのか、また、第4部を作るならどのような内容にするか考えてみようということで進んでいきました。

 

なぜ紫式部は第三部を書いたのか。

私はなぜ第三部まで書き続けるのかと考えた時に、誰かのために書いていたからかなと思いました。誰か特定の人に向けて書いているなら、他の人にどう評価されようとその人に届くように書き続けるかなと思ったからです。

 

他にも人気があって求られたからや、第四部まで続けるつもりだったから、結末を読者に委ねたかったからなど色々な推測がありました。

 

回答としては、実際には、紫式部は出てくる浮舟に自分を重ねており、自分のために書いていた。また、よく読むと鎌倉時代に使われていた言葉が使われており、紫式部の妹が書いた作品ではないかと仰られていました。

 

第三部には、父親は違いますが源氏の息子として薫、また源氏の孫にあたる匂宮、薫の好きだった姉に似ている浮舟が主な登場人物となります。

2人に言い寄られて自殺しようとして助けられた浮舟は、出家し、薫は浮舟の弟に浮舟への手紙を頼むが断り続けられ、お話はなにも救いのないままお話は終わってしまいます。

 

以上のことを踏まえグループに分かれて第四部の物語を自分たちで考えていくことになりました。

 

私のグループは、まずどうしようかなあ…と進む切り口が分からず、一旦状況整理から始まりました。

まず、グループのメンバーが三角関係に目をつけ、誰かをあやめたい!とアイデアを出してくれたので、当時1番起こりやすそうなボヤ騒ぎが浮舟の寝ているときに生じるようにしました。しかし、このままでは第四部でも全く救いがないので、お互い出会わせることにしたいと思いました。そこで、ボヤ騒ぎを聞きつけた薫と浮舟が出会いお互いに思いを告げることにしました。そこで浮舟は息を立つのですが、薫は大切な人を2度失ってしまうことになります。薫は血は繋がりこそないものの、好きな人を失い、面影を求め、たらしとなった源氏と同じ境遇に非常に似ており、薫は源氏ver.2としてこのまま進むのではないかということで終わりました。

 

私はいつも突飛な発想やひらてきが上手くなく、他の講義で事業プランを考えた時にも、私が思いつくものは、既存のアプリやサービスがあると実感しました。いつも、新しいアイデアを思いつき創造力がある人は良いなと思うのですが、私はその良さを引き出すことやサポートが向いているのだと思います。だからこそ、せっかく出してもらえたアイデアを活かしたい思うし、これからも練習していきたいと思います。

 

他の班のストーリーも面白くて、浮舟の夢で恋愛マスターに助言されて薫と会うことを決断しハッピーエンドだったり、他のライバルが出てきたり、駆け落ちしたり、結果的に浮舟と薫は結ばれない選択肢をとったり、被らずにでも第4部のお話にどこか近い所があって、聞いていても楽しかったなと思いました。

実際の山路の露では、浮舟は現世特に母や女房に何も言わずに出てきたことを非常に気にとめており、僧侶からの助言で、会いに行くことにしたのでした。薫とも会いますが、お互いに関係は変わらないままであり、特にここで大切に書かれているところは母や家族へ想いを告げる場面だそうです。

 

 

これまで3回にわたって古典を学んできたのですが、

ではあらためて古典は必要なのか。

なぜ古典を勉強するのか、私にとっての古典とは何か。が、今回出された最後のお題です。

 

私は正直なところ、受験勉強での古典は、問われたものを適切に訳す、素早く内容を理解することを求められるので好きではありません。ですが、背景やテーマを楽しんだり、作品を深く読んだりするため自分から古典を読んでみたいなと思ったときに、昔学んでいたことによって、1から勉強していたときよりも抵抗なく読むことができたなと思いました。

 

古典を勉強することは、もちろん、昔の人の考えを知ることのできるものであり、歴史から学ぶことができる、日本のアイデンティティの側面もあると思います。それに加え、私は、物語を自分ならどう書くか考える創造力も養え、現代には古典をモチーフにして新しいテーマを持たせた素敵な作品が生まれており、古典を学んでないない時よりも少し豊かに考えさせてくれることに繋がるのかなと思います。これは、横山先生の仰っていた古典に参加するためということにまとめられるのかも知れません。

 

古典が必要かどうかは、何を基準にするかや、人によるのかもしれませんが、私は昔の作品が現代まで受け継がれているのは、少なくとも失いたくない作品だと思われているからであり、必要とされているのだと思います。

 

 

 

古典の予備知識はほとんどない中でしたが、面白くて、興味がわきました!横山先生、3回にわたって、講義していただき、本当にありがとうございました!

 

 

 

おわり!

ゼミ活動記録No.26古典②

お疲れ様です!☺︎

さっそく前回の記録をしていこうと思います。

 

前回は映画「君の名は」が古典文学をモチーフにしているということで、深堀していきました。

 

私の「君の名は」についてのイメージはとにかく色使いが綺麗!音楽と映像が一体となっていて、流れ星のような、流星群のようなシーンが映画館で見てめっちゃよかった!っていう印象がありました。

 

この映画の題材に用いられたの古典文学としては主に二つで、題名が「君の名は」に決定される前の企画書に書かれていた題名が『夢と知りせば(仮)-男女とりかえばや物語』だったことから、古典文学のとりかえばや物語と、小野小町の夢としりせばのようです。何となく言われてみれば聞いたことあったような…って感じでした。

 

とりかえばや物語とは、男勝りな女の子と女の子のような男の子のキョウダイの男女を入れ替えてしまう、男女逆転物語の先駆けのお話だそうです。お話を聞いていて、高校の時にそういえば、父親が自分の子供の性別を取り替えたいなぁと思うという一節を読んだ記憶があります。

 

この作品から男女入れ替え物語りというのが作られたそうです。ただ、どの作品も共通して元の性別に戻ってしまう、最終的には社会的枠組みの中に戻ってしまうものだそうです。

 

ただ「君の名は」男女入れ替え物語りの中でも、時間軸をずらして作られていたり、入れ替わったもの同士が恋に落ちていたりという違いがあるそうです。

 

また、この恋というところに、小野小町の作品を組み合わせているのかな、と思いました。

 

六歌仙の一人として有名な小野小町は私からみると独創的な恋愛体質の肉食系女性という感じでした。

今回、モチーフにされたのは、以下の小野小町の夢三部作のうちのひとつの歌です。

 

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを (古今和歌集)

(想いながら眠ったのであなたが〔夢に〕見えたのでしょうか夢と知っていたら目覚めなかったのに)

 

今とは違い、昔は夢に出てくると相手が自分を思ってくれているから夢にでてきたという風習がある際に、小野小町は、自分が思っているから相手が出てきたという考え方!これって実はかなり凄いことなのだと思います。私は一般教養で教育論を取っているのですが、教育論では、新しい考え方や概念、思想っていうのは強く根付いていて、受け入れてもらうこと、生み出すこと、新たな角度から見直すことというのはかなり難しいことです。少し違うかもしれませんが、歌を詠むことでその新しい価値観に共感を得てそれが人気となるにはかなり難しいことなのではなかったのかと思います。

 

この作品が夢の中で入れ替わっているあの「君の名は」に使われている所ではないかと考えられそうです。「君の名は」では夢の中に相手が出てくる訳ではなく、夢の中で入れ替わっている現実のあの人に会いたい、会いに行きたい、この儚い学生時代の青春に、すごく心が揺さぶられる、葛藤している思春期の思いを映画に閉じ込めているのかな、と思いました。(必死にえもいで終わらせないように頑張ったのですが、語彙力!)

 

また、小野小町は他の作品でグイグイさも見ることができます。

 

いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る(古今和歌集)

(とても切実にあなたを恋しく思う夜は、“好きな人が夢に出てくる”と噂のおまじないに頼って、夜着を裏返して寝るのです。)

 

自分から相手の夢に出ていこうとする攻めの姿勢…!!肉食系ですね!私は、今実際にこんなことされてたら引いちゃうけど、昔の女性は男性を待つことが主流とされていたからこそ、男性からは、可愛らしい女性だなというような好感を、女性からは分かるわ〜という共感を得て、多くの人を魅了していたのかもしれませんね。

 

また昔の人は本を読む=本を書くこと、ストーリーをもらってくること、作品を引用してアレンジすることが自由とされていたそうなので、作品が変奏するのは、悪いことではなかったそうです。

 

そして今回のテーマは

物語を引用・変奏しながら表現したい内容とは何か。

 

私は何にしようかな〜と何となく考えたらハウルが思い浮かんだので、ジブリハウルの動く城について考察していこうと思います。

 

まず、ハウルの動く城にはもちろん原作があります。原作はイギリスの作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』(原題;Howl's Moving Castle 1986)です。これを元に作られた作品がハウルの動く城なのですが、魔法を使えるため結末がふわふわとしている、急に原作にはないキャラ、戦争というテーマ、モチーフが出てくる、宮崎駿は原作に遊ばれた作品などとまぁ批判が多く、逆に好きな人はかなり好きと賛否両論がキッパリ分かれた作品だそうです。

 

でも私は宮崎駿監督が何のテーマも無く、この作品に仕上げたとは思えません。

私は好き派なので、嫌い派の方はごめんね、って感じでこれから考察していこうと思います。

 

ハウルの動く城を一言で説明しようとすると、少し無理がありますが、魔力を手にしたヘタレなイケメンが、守る人達のために戦おうと決意して戦ってたけど、結局守りたい人達から守られる。って感じです。

この映画には原作にはないシーンが沢山盛り込まれています。

 

例えば、最初、帽子屋のソフィーという女性が兵士に絡まれている所を偶然、ハウルは出会い助けたかのようなシーンからストーリーが展開します。ですが、実は最後のシーン辺りにソフィーはハウルを助けるために、指輪の効力を使って運命を辿って幼少期のハウルに出会っていたのです。そして、「ハウルー、カルシファー!あたしはソフィー!待ってて、あたしきっと行くから!未来で待ってて!」とセリフを言うと指輪の効力が切れ、過去から現実に引き戻されてしまいます。

 

そして、ソフィーとハウルの偶然の出会い頭には、ハウルの指輪がソフィーの方角を示しています。

偶然は必然に生じる、なんか運命を信じさせてくれるような伏線です。

 

他にも原作にはない演出があり、良さが散りばめられていますが、ここでは長くなるので、後2つだけ書こうと思います。

 

次のオリジナルの演出は、ソフィーは荒地の魔女からおばあちゃんにされてしまいますが、映画の中で急に若返ったり、また老けたりしてしまいます。原作にいつ若返ったり、老けたりするかは、明示されていません。映画では、ソフィーは劣等感をもっているキャラクターで、後ろ向きな発言をするとおばあちゃんに、前向きな発言をするとどんどん若返っていきます。

 

これは歳をとることが悪いと言うことを伝えたいのではないと思います。千と千尋の神隠しでは、千尋の発言で自分の運命を決めたのだといわれていますし、自分の言葉で自分の運命を左右することを伝えたいのかなとおもいました。

また、宮崎駿監督は

「呪いが解け、おばあちゃんが若い娘に戻って幸せになりました、という映画だけは作ってはいけないと思った。だったら、年寄りは皆、不幸ということになる」

「大切なのは彼女(ソフィー)が年を忘れること。原作には、いつ少女がもとに戻るか書いていない。作者のダイアナ・ウィン・ジョーンズが言いたいのは、歳は問題じゃないということだ」

と語っていました。

 

2つ目は、ハウルの動く城のおんぼろな形です。

これは原作では女性が好むようなお城のような演出だったそうです。この映画で用いられたおんぼろな形は、ハウルの見た目が良い、表面では調子よく、格好をつけていますが、実は自信がなく、心が弱く、責任から逃げているような内面の性格を表しているものだと言われていします。ハウルは原作でも映画でもしっかりダメ男にお互い描かれいるそうなのですが、このハウルの人間らしいところ凄く好きですね。

 

また、宮崎駿監督は全ての映画に対して、

「基本的に子どもたちにこの世は生きるに値するんだということを伝えるのが、自分たちの仕事の根幹になければならないと思ってきました。それは今も変わっていません。」

と言うメッセージを込めて作られているそうです。

 

作品事に伝えたい思いは変わるのかもしれませんが、原作をモチーフにして、映画を通して論理で解決できない人間の情緒的な面を映像で紡ぎ出しているのかなと思います。また、ハウルの動く城に関しては、歳をとるということは悪いことでも、問題でもない、自分の運命を決めるのは自分であるということでしょうか。

 

上手くまとめられた感じはしませんが、作品に対して筆者がどんなテーマを伝えたいのかという意識を持って見るのと、何も考えずに見るのではまた違う楽しさがあるなと今回感じました。

 

 

次回はいよいよ最後の古典、3回目です!たのしみ!

 

 

 

おわり!

 

 

 

ゼミ活動記録No.25成長と古典

お疲れ様です。☺︎

最近皆さんいかがお過ごしですか。

私は、課題に指が腱鞘炎ですが、まだまだ課題は増えそうです、、、もう!

昨日は車校の先生に週末何してたの、天気良かったのにデートとか行かなかったの〜、課題だけ?とか言われてメンタルはゼロです!!今、修造にあいたい!お前は富士山だって言ってもらいたい!!そんな今日この頃です。笑

 

さて今回は前回分と前々回分を合わせて記録していこうと思います。

 

 成長

まず、前々回のゼミについて、

森田先生から哲学についての雑感、フィードバックをいただき、成長できる人ってどんな人だろうと考えていきました。

 

フィードバック

森田先生からのフィードバックで印象に残ったのはまず、思考のプロセスをとりあえず一旦アウトプットして整理しておくことで、結論を答えとして終わらせるのではなく、またアウトプットと対話していくという点、次に相手からの発言に素直に揺さぶられるのも一つの力だけど、揺さぶられぱなしで自分の殻から出られないのはよくないという点でした。

 

一つ目の点については、結論をふるいにかけていくような印象があり、新しいインプットが増えた自分で昔の自分の結論を見ることで結論を鋭く、または形をかえるようなイメージを持ちました。

すごくふわふわした言語化になってしまいましたが、結論はその時点での結論として捉えることはそこで成長を止めない意味をもつのかなと思います。

 

二つ目の点については、お話を聞いて私は相手からの意見に対して揺さぶられやすいと思っていたけど、本当は揺さぶられてないのかもしれないなと思ったからです。それは相手の意見を聞いてそれいいねと一旦飲み込み、同調することがあっても、それをその場だけに留めてそこから自分のものにしない、受け入れていないときがあるんじゃないかと思ったからです。もちろん、相手にもよるのだと思いますが、まず一旦飲み込んでみるところからもう一つ先の自分にも取り入れてみる、そのことを次回から意識して取り組んでいきたいなと思います。

 

 成長できる人とは

次に先生から頂いたお題は成長できる人ってどんな人だろうというものです。

 

私たちのグループはまず、周りにいる成長できる人ってどんな人だろうと話し合いました。そして、振り返る人かな、目的をもって行動している人かなとか成長できる人についても話していましたが、そもそも成長ってどういうことなんだろうねというところが話のほとんどを占めていました。

 

例えば、最初から出来ることは成長とは言えないのではないか、目に見ないものは成長ではないのか、などと話していきました。

 

成長ってなんだろうと考えて詰まってきたら、じんくんからのパスで成長できない人ってどんな人だろう、や森田先生から振り返るって言っても子どもの絵本を今見ても成長してることなのかななどの意見をいただきました。

 

そのことを通して、まず、成長には意識面、無意識的(生理的)な面があると考えました。

前者は自分が意図的に行うと決めたものや、意識的に行うものです。後者は無意識的なもので、その人の感覚や本能的なものも含まれると思います。例えば赤ちゃんの成長寝返りなどはこちらになると考えました。

 

以上のことを通して、意識的な成長とは、目に見えるもの(=形になる事が実現する)だけではなく、目に見えるように行動、試行錯誤、など結果までの努力部分であり、それを行える人が成長できる人なのではないかと考えました。

 

またその成長がわかるときとは、その時点での自分の振り返りだけでわかるものではなく、昔の自分を振り返るときや、周りから分かるものであるとしました。

 

他の講義での話し合いや、グループディスカッションでは、抽象的な概念の定義をこうしましょう、と定義をさくっと決めてから話し合う事ばかりだったので、定義をじっくりと丁寧に話し合えるのは貴重で良いなと思います。私はまだ実家にいるので、母親は丁度ゼミの内容が聞こえていたようで、あなたはそんなしょうもないことを話しててバカなの。なんて言われてしまいましたが、母親からしてみれば哲学に触れたことがない訳で、ああ、これが哲学では基本共感されないことなんだろうなぁと思いました。んー。相手に理解して共感してもらうのは難しい。。

私はまだまだ話し合いの経験値は足りてないのでこれからも経験していきたいなとおもいました。

 

古典

次に前回の古典についてです。  

古典について、大きなテーマとしていただいたお題は古典は本当に必要なのかについてです。

 なぜ古典を勉強するのか

まず、一旦そこから、古典についてのなぜ古典を勉強するのか、皆さんにとっての古典とは?という問いをいただきました。

私は古典についてのイメージは私はかなり暗記のイメージがあって、ひたすら文法の小テストしてた記憶がありました。後、高3のときの国語の先生が内容が同じようなテーマごと課題に出す人だったので、ひたすら女性がさまかえなむが続いて、嫌なことあったらすぐみんな出家しよるなと思っていました。

なぜ勉強するのかについては社会学的な歴史面のところだけではなく、文学面から歴史、背景、昔の人の知恵や思考などを学ぶことができるからかなとおもいます。

 

なぜ古典を勉強するのかについて他の意見や、横山先生から頂いた回答は

純粋に楽しいから。ストーリーの楽しさや昔の人と繋がる感覚がある。日本のアイデンティティとして所属する文化の古典や歴史を学ぶや、現在の逆照射をする。近代を相対化できる装置であり、今の常識を疑うなどがありました。

 

確かに話を聞いていて、純粋に楽しいとか忘れていた感覚を思い出していました。今の直接的だとめちゃめちゃメンヘラな内容も、古典では、暗喩や様々表現技法で間接的に表現された文章は美しいとされていて、確かに上品さや興味深さや面白さ、に触れるって楽しいものだったよなと思いました。

 

硯にむかひて

そして話は兼好法師徒然草の「硯にむかひて」の解釈から話はどんどん広がっていきます。

硯に向かうって変じゃないか。なぜ机じゃなく硯なのか。

聞かれたら確かに何でだろうと思いました。中学の時の先生からは机に向かうことと同義だと教わった記憶があります。 

 

ではなぜ兼好法師は硯にむかいひてを選んだのが、これを調べるの方法としては、

まず、同じ作者の他の作品を読んでみて、他にも同じ表現がないか、作者の癖などを調べること。
次に他の時代に同じ表現はないのかを調べることによって、作者がそれを用いた可能性について吟味することでした。

 

ここで、具体例として米津玄師さんのlemonについてレモン哀歌を参考に作られたのではないかというお話を聞きました。話を聞いていてジブリも似ているなと思っていて、オマージュとしてできたその作品の背景を知るとその参考にした人の博識に驚かされます。

 

そして兼好法師は、なんと源氏物語から影響を受けているらしく。源氏物語に硯に向かいひて、という表現は手習い(物書き、読み書き)として、人に言えないもの、悩みを発見する手段として使われていたようです。ひとつの硯にむかひてというワードからの話の広がり方に、正直、驚きました。また、全然違う時代、分野の内容なのに自分の作品に落とし込み、その作品に含みをもたせる兼好法師凄いなぁというのがシンプルな感想です。

 

次回は君の名はは古典文学の引用をしているので、そのテーマについて理解を深めていくようです。

楽しみです!

 

おわり!

差別について③

お疲れ様です☺︎

 

前回から引き続き哲学対話を続けていきました。

今回はAとBについての対話のフィードバック、また、CとDの文章について問いを立ててはなしていきました。

 

1つ目は、われわれは自分が持っているコミュニティに対して、他の人も同じように愛着を持ってもらいたいと思ってしまうのはなぜか?そして、その気持ちは持っていて良いものなのか、それとも制御すべきものなのか?また制御するとどうなるのか?
2つ目は、怠け者のB君を、「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、なぜ問題なのか?

 

の2つです。2つ目についてはあまり話し合うことが出来ませんでした。しかし、1つ目については話して、自分でも考えることができたので、記録していこうと思います。

 

1つ目について話し合った際に、まず人に対して、物に対してで他人にも愛着を持ってもらいたいという気持ちが変わってくるという話が出ました。

 

まず、物に対しては相手におすすめしたい、物に対しての愛着は、自分の持っているものの良さをもっと周りに知って欲しいという気持ち、また実は内緒にしておきたいけど親しい人(コミュニティ)には教えたくなる、共有したくなるということがありました。

 

また、ヒトよりもモノは紹介しやすく、話しやすいのは、モノは自分の構成する一部であり、否定されてもそこまでダメージがない。逆にヒト(コミュニティ)に対しての愛着は、自分を構成している大部分のものになるので、否定されたくない、ダメージが大きいという意見がありました。

 

具体的に考えてみるとわかりやすかったです。私は自分の家族の批判より、おすすめの口紅の批判のほうが心のダメージが少なく、この意見にすごどうでした。

 

次に人に対してはさらに2つにわけることができるという話になりました。それは自分が持っているコミュニティに対して他の人とも同じように愛着を持ってもらいたいという人と、そうとは思わない人です。

 

私はどちらかと言うと後者の方でその人はその人の考え方でいいよなと思ってしまいます。

具体的には、その人の考え方を良いか悪いか、受け入れることができるかを考える訳ではなくて、その人はそういう考えなんだなと分けているという感覚です。冷たく思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私は正直、違う境遇、生き方をしてきている人同士で、自分と全く同じ思考、価値観を全く同じ体温で共感することはできないと思うからです。

 

よって、その人はその人に合うもの、好きなコミュニティを選んだらいいし、その愛着を他の人へ押し付ける意味は特にないと思ってしまいます。

 

愛着については以前、頭が痛くなるほど考えましたが、私が強要したところで、相手がもつものではなく、相手がそのきっかけを掴み自分で紡ぎ出していくものであり、愛着もその人により強度が違うと思います。

 

次に、コミュニティへの愛着を同じように持ってもらいたいと思う人は、モノを共有すると同じように相手にも良さを知ってもらいたいというものと、自分が一般的、普遍的であると捉えたいという気持ちから、相手にも押し付けてしまうものがあるということでした。

 

この場合、制限が必要かどうかについて、私は自分の価値観、考え方に合うコミュニティ内での共有が良いのではないかと思いました。

 

例えば、同じアイドルが好きな人同士がそのアイドルの良さを話したり、好きな曲を共有したりすることは、そのコミュニティへの愛着が深まると考えます。しかし、興味がない人に話したところで、相手は強要されつまらないと感じる、また話し手側は共感してもらえないことで自分がおかしいのかとおもったり、つまらなく感じたりすると思います。

 

私は、自分と同じように自分のコミュニティに愛着を持ってもらいたいと思った場合、最終的には自分の意見を相手へ押し付けるものに繋がっているのだと思います。また、その価値観は自分を形成しているものであり、悪いものではなく、決して全て制限しなければならないものでもないとおもいます。

 

ただ、自分の意見を一方的に相手へ押し付けることは、相手の価値観を否定する可能性もあります。その場合は制限すべきものになると思います。

 

自分の視野の幅を広げ、相手の立場、相手の価値観、相手コミュニティにも目を向けることは少しは、無意識のうちにおこなってしまう差別の抑制になるのではないかと思いました。

 

しかし、この考え方はこの考え方でまた差別をしてしまっているのかもしれません。またこれをおこなったところで、愛着を共有する、せずに関わらずともまた無意識下、潜在化で差別を行なっているのかもしれません。

 

本当にどうしたらいいんだろう、、、

こうして、ずっと考えていると差別がいじめの捉え方に似てきたところがありました。相手がいじめと捉えた時点でいじめというような感じで、相手が差別と捉えたところから差別になるのではないかと思ってきました。

 

すると価値観が一緒でない人間はやっぱり差別をなくすことなんて無理だと思います。

 

ただ、だからといって差別しないことを諦めるというわけではなく、お互いに生きやすいように、理解できないところや、不快なところも、単に否定せずに、互いに少しずつ折り合いをつけて生きていく。

 

 

そうしていくことしか今の私には思いつきませんでした。ブログを書いていても中々思考がまとまらないというのが哲学の難しさというか、、ごちゃごちゃしました。まだまだ浅いなぁ、、悔しい、、

他の人のブログも読んでみようと思います。

 

 

 

 

おわり。

 

 

 

差別について②

最近車校に通い始めて、自分の運転ポンコツすぎて、運転できる人にかっこいいエフェクトがかかり始めています。どんな状況で脱輪するのか、ハンドル操作、ブレーキの掛け方、分析するだけでブログ書けそうです、、、とりあえず脱脱輪!!!

 

前回に引き続きテーマは差別についてです。今回はそもそも哲学はどういったものなのか、また2つのお題についてグループで分かれて考えていきました。

 

哲学という営み

知識や価値観は磁力(親和性と排他性)をもつものであり、哲学とはその既知の知識を揺さぶることだそうです。

 

具体例で知識について右翼左翼の話があり、すごく納得してしまいました。私は少し右翼寄りなので、左翼が批判している右翼の行動内容を調べたりするからです。あまり自覚はなかったけどこれは自分から都合の良い情報を集めにいっているものだと思いました。

 

また、知識は毒にもなる、脱げない鎧というお話もあり、その鎧を脱げるようにするもの、知識を疑ってみるものが哲学なのだと思いました。

 

哲学的な問いとは

大抵の人にとって当たり前の土台が疑わしく見えたときに哲学的な問いがたち、その共有は考えたことのある人同士、問いがリアルに思える人としか行うことが難しく、孤独な問いになってしまうそうです。

 

確かに考えたことない人にいきなり興味のない話を共有しても相手は何言ってんだって感じですよね。

哲学の問いは孤独な問いになるけど、ゼミではみんなでやってるから恵まれているなと思います。

 

哲学対話とは

対話とは議論でも会話でもないものですが、決して答えを出さないものではないというものです。

 

自分の言葉でゆっくり話し、相手の言葉の中にあるものを共に探ること。自説や自分の価値観を守ろうとせず、相手の言葉によって揺さぶられることを恐れないことで、自分の価値観や固定概念を解体していくことができるそうです。

 

以上のことを踏まえてグループで分かれてお題について話し合って行きました。

お題

①なぜ我々はあなたは差別していると思われたくないのか?

②差別をしたくない場合、どうすれば良いか?

あるいは、そもそも差別はしてしまっても仕方がないものなのか?だとしたらなぜ世の中はかくも差別はいけないと言われているのか?

 

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私たちのグループで話し合った内容はこんな感じでした。初めはお題について意見を出していっていました。

 

差別してると思われたくないのは、それまでの社会的統制、教育で差別はだめだと教わってきたり、人は他人に悪く思われたくない、自分が差別されたくないからこそ、自他共に差別をしてはいけないということを求めているのかなと話し合いました。

 

次に2番目のじゃあ差別をしたくない場合、どうしたらいいのかを考えていった際に、少し詰まりました。

差別をしたくない場合は個性として捉えたり、相手に無関心でいたりすることが考えつきました。しかし、それらは差別にならないのか、また、無意識で行っている差別はどうしたら良いのか、と考えているうちに差別ってそもそもなんだろう、どこから生まれてくるのだろうと思ってきたからです。

 

差別をなくす、減らす(それが良いかどうかはいったん置いておいて)には、差別の捉え方が共通のものにならないと難しいのではないでしょうか。

 

そういうわけで一つフェーズを落として差別とは何かを考えてみました。

 

講義後からずっとたらたら考えていて火曜日まで来てしまいましたが、カワウソカフェに行ったことを思い出しました。

 

カワウソを愛でにカワウソカフェに行ったのに、飼育員さんから聞いたのはカワウソは実はえげつないいじめする話です。3匹以上ゲージに入れるとすると

必ず多数派と1匹に分かれて、多数派みんなで1匹だけをいじめるそうです。また、いじめられたカワウソを隔離すると他のカワウソが1匹仲間外れにされていじめられるそうです。

エンドレス!

 

その時はカワウソ闇深すぎると思ってたんですが、調べてみると他の動物も同じようなことがありました。

 

これは野生で生き残るために動物的本能的性質の一つに、強いものが自分の餌や地位を獲得するため、弱者や異端者を排除するためのようです。

 

人間には理性がありますが、果たして動物として競争してきた本能の名残はもうないのでしょうか。

 

私はあるのではないかと思いました。だからこそ、人は差別に対していけないと思い、制御しようとししているが、無くすことが難しい。

 

では、差別をなくすのは無理なのでしょうか。

それは嫌だなぁ。というのが個人的な意見です。

差別はなくならないものとして考えるのが妥当なのかもしれませんが、相手のことを客観的に捉えたり、肌や性別、出身、民族で優劣がないことを理解したりするなど、少しずつ差別をなくすために今私が考えつくものです。

 

また今回ブログを書きながら理性ってなんだろうなとずっと考えていました。これを次回への質問にできたらと思います。

 

 

 

おわり!

 

 

差別について

お疲れさまです☺︎

 

いよいよ哲学に入っていくと言うことで、今回のお題は差別についてです。日頃あまり読書をするタイプではないので、読解力の不安が否めませんが、なんとか記録していこうと思います。

 

ゼミの活動形式としては、オンライン上で5つのグループに分かれて差別についての輪読していきました。そして今回はAからDまで自分で読んでみて、わかったことをまとめて、それについて考えたことを書いていこうと思います。

 

Aについて

 

差別とは悪意に基づき、また、悪意=攻撃性と言える。しかし、攻撃性(アグレッション)は人生の豊かさに通じており、攻撃性があるおかげで人類は発展してきた。(例えば攻撃性があったからこそ、人間は行動様式、向上心が発展した。)

 

よって、悪意を排除すべきものと批判をすることは、攻撃性の批判となり、人間の発展性を排除するものとなるから単純にしてはならない。

 

Aの文章についての私の解釈ではこんな感じでした。

ひとつのパートをのぞいてだいたい大まかな内容は分かってきたのですが、まだ少し理解が難しいところがあり、そこはまだ考えてみたいと思ってます。

 

私は極端なので、ここの文章を読んでみると、それなら悪意をむしろもっと増大させていった方がいいんじゃないかと思ってしまいました。悪意が人生を豊かにするなら、悪意に罪責感なんて抱かなくていいじゃないですか。しかし、Bを読み進めると、私みたいな人へのベストアンサーみたいな解答をもらった感じがしました。

 

Bについて

私たちは合理的、非合理的理由から不快を感じてしまうが、それをできるだけ表に出さないように賢く振る舞っている。また、差別に対して、社会統制が厳しくなればなるほど、内的制裁としての感情統制も厳しくなる。

 

その理由として、一つ目に、人間は他人から不快に感じられたくないし、そう感じられていると自分が傷つくからである。次に、人間の感じる硬い差別感情意識に基づく不快は、社会的弊害が大きいため「差別感情」と定義され、その不快を表出すことは身の危険を招き、社会的に葬り去られてしまうからである。

 

BについてはAよりもすんなり納得できたところが大きかったです。例えば女性や人種差別について実際になくなってはいないと思いますが、それを表出ししてしまう人は確かに身の危険を招いているのではないかと思います。(今だと全米に広がっているデモなど)

 

ただ、"自分がされて嫌なことはしてはならない。" "多様な価値観を認めていかなければいけない。" "人種、民族、性別で差別されてはならない。"そう私が教わってきたものの根本の理由が、ただ人から不快に感じられていると"自分が傷つく"からである。そう言われてしまうと、すごく滑稽に見えてしまいました。

 

つまり、人は自分が傷つくのが怖いから差別はいけないものだとし、硬い差別を社会的弊害として社会的統制したと言うことでしょうか。

 

もちろん、差別が良いと言いたい訳ではありません。差別意識を排除しなければいけないことなど言わずとも正直、暗黙知されているとおもいます。しかし、その価値観は、自分が傷つかないようにするために作られたものだと考えると、なんか、利己的な思想からきているものだと感じてしまいました。

 

Aと合わせながら考えると、自分と他人と比較し優劣を付け自ら差別を作り、自らの傷つきを恐れ差別を排除しようとする。

自分の悪が主体となっていますが、その悪を抑えることで自分を守る。なんか人間は自分自身に振り回されているように思えてしまいます。これが先程、揶揄した理由です。

 

 

Cについて

アイデンティティを確立した人の多くは国や民族、故郷や出身校など帰属意識や集団に対して愛を持っている。しかし、行き過ぎた愛は差別感情の温床となってしまう。日本でも、家族愛に対しては露骨な愛情を注いでも許される唯一の組織として家族至上主義がある。多数派は家族を愛することは自然だとして、それを欲していないものを頭から批難して排除している。

 

(例えば、祝福を期待し大きな顔をして家族についての報告する際には、既に少数派の人たちに対して、潜在的に加害者になっている)

 

Cを読んでみての感想は、わからんくもない。そんな所でしょうか。コロナ感染拡大予防の際には、抑制がうまくいっているのは国民性だのなんだのいって日本人は多少日本に愛をもっているんだなと感じます。少しこのパートの論点とはずれるかもしれませんが、私は愛、帰属意識がなくても、同じような被害は起こるものもあると思いました。

 

最近耳にした本の名前に「多分そいつ今ごろパフェとか食ってるよ」の題名を思い出しました。まだ読んだことはないのですが、多分この本には無意識下の差別意識、それによって傷つけられた人の内容なのではないかと思えてきました。そう考えると今まであまり興味がなかった本に興味が湧いてきて、変な感じです。少しそれましたが、言いたいことは、これって帰属意識、またその愛から傷つけられたのでしょうか。

 

また、ある常識に対してそれが善とされている時、その常識を逸脱しているひとは、よく批判されています。この文章を読んでみてなんか出る杭は打たれるという言葉がぽんっと思い浮かびました。

いきなりの革新や天才、身近なところでは政治的方針などに対して、いわゆる周りの常識人、誰が認めたかよくわからない専門家が偏った見方で批判しているなんてことはよくあります。これが帰属意識からの愛からとして、その被害者は上記の被害者とダメージは違うのでしょうか。

 

Cの内容をふまえると、その常識の押し付け、アピールは、きっと必要としてない人への暴力、つまり相手を傷つけているということですよね。しかも悪意なく、無意識化でも生じるものもある。

 

なんか立ちが悪いです笑

でもなんとなくわかる気がします。相手が無意識、無神経にいった言葉に対して、自分が傷つくなんてことはよくあるんじゃないでしょうか。

 

よくわからなくなってきましたが、帰属意識の愛がある場合の差別と、帰属意識の愛がない場合に生じる無意識下の差別は成立するのか、またその差別による相手への傷のつけ方は何が違うんでしょうか。傷つけられ方を自分で分類できれば、それにうまく対応できるようになるのかもしれないですね。

 

Dについて

差別意識を持たないことは、ほとんど不可能である。その理由は、子供の時から良いことを目指すように教えこまれているからである。これによって、良いことへの価値観に反している者、自分より劣っている者を自然と制度によらない差別として蔑むが、差別を悪いこととして、してはいけないと教育される(表出ししてはならない)。また差別をしないとしても、自分の能力が優れていた際、誇らないことによって、自分が得をすることを学び、内心は周りよりも優れていると誇らしく思う。

 

ここを読んでみて私は、差別をなくすことは"ほとんど"不可能というところに可能な可能性を完全に否定できない理由はどこにあるんだろうと思ってしまいました。(正直、ここの言葉遣いはそんなに重要視することろではない思います。でも私のブログだからいいよねと思って書きます笑)

AからDまで散々差別があると立証してきたのになにがそう書かせるのでしょうか。白い烏のように悪魔の証明になるからでしょうか。もしかしたら筆者は差別のない人を求めているのでしょうか。

 

私はこの差別についての文章を読んでみて、悪意についてもっと知ってみたいと思いました。人生を豊かにするために攻撃性がいるとして、攻撃性は悪意から生まれるとし仮定すると、他人と比較して自分の優劣をつけるのは全て悪意なのでしょうか。

悪意の定義として、

他人を憎み、害を加えようとする気持ち

とありました。

 

正直メウロコする、納得するところが多かったです。でも私はどうしても人生の豊かさはが悪意だけに基づいているとは考えたくない思ってしまいます。それは私も小学生からよいことを擦り込まれているからかもしれません。もしくは自分が傷つくから悪意を恐れているのかもしれません。それでも嫌なものは嫌です。笑

 

私は困っている人を助けるとき、その人が私よりも劣っているから可哀想だ、助けようなんて思っていないんですよね。無意識下に思っていると言われたらもうなんとも言えませんが、ただその人のために手伝いたいと思うことは無性のギブという感覚が近いです。自分が相手のためにしたかったらしただけで、相手に何も求めておらず、得られるのは結局自己満足だけなのかもしれません。もしくは他人と比較して誇らしくおもっているのでしょうか。でもこれって悪意なんでしょうか。

 

もし、ネットなどを利用して、自分の知りたいこと、興味、関心に対してそれを利用し、他人ではなく過去の自分、今の自分、未来の自分と自己比較していくような教育をしたら、もしかしたら悪意のある差別はなくなるのでしょうか。なくならないんだろうなぁ。

 

今回少し哲学に入ってみて、哲学は答えが数学のように答えが決まっているわけではなく、また決まっていたとしても捉え方によって人と異なる可能性があり、正直、難しいなと思いました。私はよく観点が変だと家族に言われたりするので(私的には家族の方が変) 間違えているかどうか不安なところもあります。のびしろですね、、!!

 

ブログを夜に書くと考え出して、眠れなくて徹夜体質になり、結局日をまたいで書いてしまうので、今度から夜にはやらないことにします。

 

おわり。

 

 

読まれたくないブログ

今回は春休みの振り返りを自分宛にたらたらと書いていこうと思います。

本当はお題について考えたブログと一緒の記事にまとめて出そうと思ったのですが、長くなったので分けることにしました。

私の場合は欲張りでせっかく書くなら沢山まとめてしまおうと思うから毎回量が多いんだろうなあ…そして今回のブログは情けないから読まれたくない、そんな感じです。

 

ではさっそく春休みなにしたかなぁ〜って月ごとにさくっと振り返ろうと思います。

 

2月英語力高めるぞぞぞっと意気込んでホノルルに短期留学に行ったらTOEICのモチベがゼロになって帰国した。

3月謎の筋トレブームと検定勉強ブーム

4月姪っ子の世話をしてたら1日終わる日々が終わり色々したかったことし出したらオンライン授業が始まりだす。

5月在宅なのに皐月病(今ココ)

 

うん、かなりまとまりましたね。本当にこんな感じでした。その中でも記録しておきたいのは2月です。

 

私、2月に短期留学に学校のプロジェクトで行ったんです。それはもう意気込んで。費用は安くないし、誰よりもたくさん学んでたくさん遊んでこよって決めてました。ステイ先から学校までバスで1時間の間は受験生のように英単語を勉強したし、ルームメイトや、ホストファミリーと毎日話すって決めて、その日1日なにをして、なにがあったか忘れないように毎日日記をつけました。結果はメンタルボロボロになって帰国しました。笑

 

その理由としてまず一つ目に毎日、自分の英語の発音がいろんな人と話すにつれて訛っていって日に日に前よりも相手にとって聞き取りづらい発音になっていくことでした。これ、本当に混ざっていくんです。例えばスペイン人と話していたら自分にもスペイン訛りがうつってるし、コロンビア人と話してたらまた訛りがうつってるし、元々イギリス訛りとアメリカ訛りはごっちゃになってて、もう自分の言語開発したんじゃない?みたいな発音になってきて、途中でうわぁぁぁこれなんなんだよぉぉぉってなりました。辛かった。

 

次に相手の文化知らないから話せないということが辛すぎました。私は会話のクラスを受講してたんですが、例えばDC、marvelコミックス作品みんなはどっちが好き?と聞かれた時があって、クラスメイトはすぐ答えられるのに、正直私は詳しくなくて、なんか情けなかった感じがしました。他にも流行りのドラマの話とか、流行りの音楽とか全然知らなくて話してくれたルームメイトにはまじごめんって感じしかなかったです。毎日毎日知らないことを検索して、それでも全然追いつかないし、中々上手く伝えられなくて、つらい!!なんて思ってました。

 

ちなみに私のルームメイトは四六時中彼氏と電話しながら普通に誰とでも会話もする器用なイタリア人でした。他のルームメイトからビッチ呼ばわりされてたけどめちゃ親切ないい人。

 

そして、これに追い討ちをかけて私は人間不審になっていきます。笑

私のホームステイ先に同じ学校の人が3人居て、学生は2人部屋だったので、イタリア人と私、隣の部屋にスペイン人とスイス人って形でみんな女性でした。他3人は長期滞在なので既に仲良しで私のアウェイ感凄かったのですが、The海外版女子会みたいなのがステイ先で毎日行われていたんですよね。

ご飯ダイニングルームで食べてたりしたらたまに一緒に参加することになったりするんですが、海外ドラマ見てる気分でした。笑

 

その内容は基本だいたい悪口がベースなんですが、私はまず知らない人についてが多いので苦笑いだけで済ませてました。そんな私に追い討ちをかけた内容はあいつの英語のイントネーションおかしいんだよみたいな話です。具体的にここの発音をあの人はこういうんだよ面白いでしょって丁寧に説明してくれるんですが、英語の発音が独自の言語になってきてる私にとってその話はダメージしかなくて、いや、絶対私もそう思われとるやんってかなりダメージをくらいました。笑

後女子会で感じたのはすっごい表面上いい人ぶってるなって感じが凄かったところですね。例えると、そのスカート可愛いねって言った後になにあのダサいスカートおばあちゃんに貰ったのかしらみたいな感じ。伝わるかなぁ。いや、もうシンプルに人間不信なりませんか、私だけですかね、すみません、!笑

 

また、日常生活過ごしてて感じたこととしては、目に見えた差別はないけど白人は日本で言う京都人感醸し出してくるところがありました。それはプライドみたいな感じもあって、欧州の人と話した時はクールジャパンみたいなよく言う日本人ブランドはゼロでした。(逆に台湾や韓国などアジア系の留学生は日本なの?かっこいいね!みたいな感じはありました。)

その中でも1つ衝撃だったのは、その時コロナの流行り始めでコロナが中国で流行ってたニュース見て日本はどうしたの?とホストマザーが私に言ってきたことですね。さすがにこれ中国人だよって訂正しましたが、実際日本人か中国人か見分けるのは難しいだろうし気にとめないレベルなんだろうなと思いました。

 

あとシンプルに治安が悪いところもあって、街中には薬やってて頭おかしい人普通にいるし、数週間前には発砲事件でここで警官殺されたとか言われるし、危ないところは本当に危ないと思います。

 

もちろんみんながみんな悪い人とかそういう訳ではないし(基本超親切たまに変くらい)、しかも日本人だって外面良くするでしょって思います。ただ、留学中にメンタルやられるには都合がいい内容がちょうど重なったって感じです。

 

そんなこんなで帰国したら、留学後でリスニング上がってる間にTOEICの練習するぞって立ててた計画へのモチベがゼロになって帰ってきました。情けなさすぎる、、、

 

もちろんめちゃめちゃ観光したし、楽しかったけど、結構メンタルはぼろぼろでした。笑

 

ただ帰国してから見え方が変わったなと思うところのひとつに、日本に来てくれてる留学生はめちゃめちゃすごいなと思うようになったところです。大学で会う留学生は日本の文化を学びにきたっていう人や、アニメとか音楽とかも知ってる人が多くて、よく日本のことを知っていました。

日本にいたからそれが凄いこととは全然思わなかったけど、自分が実際にその立場になると凄さがわかって、尊敬しました。そしてわざわざ日本に注目して文化を知りに来てきくれたことに対して感謝したくなったし、より親切にしていきたいなと思っています。

 

すごい久しぶりにゼミ以外のブログ書いた気がします。はずかしいなぁ。

 

おわり。